自然派まさべえ

隙間時間を大切にしています。自然散策が好きです。

「里山散策」

 

生駒山系近畿自然歩道を行く>

かつて河内国津田城があった国見山を登ると、気軽な軽登山が出来るとあってワクワクしながらスタート。

夫婦岩→展望デッキ→山頂→休憩所→津田城土塁跡

というルートで周り、所々で野鳥リスニングをしてリラックスをした。

展望デッキや山頂から見える景色も爽快で気持ちの良いものだった。
 <国見山展望台>

少し枚方八景について、その歴史に触れると、河内国交野郡にあった津田城とは、二ヶ所あったという説が私は興味深い。
一つは、標高286.5メートルの位置に築かれた国見山城とも称された城。

そしてもう一つは、津田村そのものか、それを含む一帯の城だという。
この辺りは、在地領主の中原氏が勢力を持っていた後、次第に津田氏に取って代わられ、その津田氏三代目にあたる正明の時代に、三好長慶に属して、更に勢力を拡大。
交野郡の牧八郷と茨田郡の鞆呂岐六郷を併せて一万石余りの領有と、杉・藤坂・長尾・津ノ熊・大峰などの新村も開発するなどして勢力を拡げた様で、奈良興福寺との関係を持ち、津田村・藤坂村・芝村・杉村・穂谷村の「侍中」を津田筑後守範長が率いていた事が、永禄2年8月20日交野郡五ヶ郷惣待中連絡帳から明らかになっているそうだ。

<津田山城内>
津田は京都までの街道上の要地として重視されていた様に思う。
つまり、国見山城は、京都まで見渡せる視界を持ち、津田は交野平野ともいうべく、天野川が流れる平地一帯も見渡せ、幾本もの街道も見る事が出来るからだ。

津田村も比較的標高の高い位置だが、その地塊に続く三国山に登れば、津田村周辺と共に、摂津国の高槻方面にある芥川山城も含む、広大な視界を手にする事が出来る。

津田氏は、三好長慶に属する事で自己の支配領域拡大に役立て、長慶もその安定的な存在を自己の政権安定の一要素として活用した。

津田城が上と下の2つを運用していたと考えたのは、上の城である国見山城は、京都への対応のため、摂津・河内両国の連携に必要だったからだという。

おそらく、高い所の施設の維持管理には費用が重み、人員も必要になる。

そこを担当する津田氏は優遇されたのだろう。
一方、下の城である津田村は、津田氏の活動拠点であるため、人や物が集中してそこに集まり、いざという時にそこを守る必要があり、城郭化せざるを得なかっただろう。

尊光寺という津田氏一族の寺が現津田元町に存在し、村は津田氏と一体化した存在だったと思われる。

<その後の津田氏及び津田城>

三好長慶の死後、三好三人衆松永久秀の闘争に巻き込まれて苦悩するも、命脈を保つ。
更に、将軍義昭・織田信長の時代に動乱があり、荒木村重も関わった天正3年の河内国平定の時(四代津田正時の頃)には津田村も焼かれ、勢力を縮小させながら地域の動揺に耐えていたが、本能寺の変の頃には明智光秀に応じたために、決定的な打撃を受けて弱体化してしまったという。

<まとめ>
津田の秋の稔りは、元々肥沃で地の利もあり、また、村人の勤勉さもあって村は復興し、現在に至る。
正保郷長の村高は1,018石で、米の他に大麦・小麦・綿・菜種・芋・茶・大豆・大根などが取れ、酒造業・絞油業・素綿業が営まれ、宝暦10年(1760)には、1,317人が住む村となっており、石高と業種の多さから見ると豊かな村だった事が窺える。

これ程の場所なら、やはり、政治的特権を得れば相当に栄えた事は容易に想像ができ、上下2つの城を持つ事も不可能ではなかっただろう。

【国見山】https://youtu.be/lKZU5H6fbR0

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