<再び宇治田原へ>
徳川家康伊賀越えの道を辿る企画、第二弾。
家康は、明智方や一揆の襲撃に警戒しつつ、大阪の枚方から山城(現在の京田辺)に入り、「草内の渡し」で木津川を渡る。
この時、家臣の穴山梅雪が命を落とす。
<家康の伊賀越え>
明智光秀の武者狩りを避けるために徳川家康一行35名が大阪四条畷から宇治田原を経て伊賀(三重県)白子に出て海路三河へ帰還したのを「家康伊賀越え」と呼び家康の三大危機の1つに数えられているという。
当時、交通の要だった宇治田原の郷之口に「山口城(宇治田原城)」を構えていた山口甚介秀康は、家康を迎える。
家康一行は、山口城で昼食をとったらしい。
やがて馬を換えて出発し、当時山城と近江を東西に結ぶ「信楽街道」が通過する立川、湯屋谷を経て奥山田に入る。
【動画】伊賀越え https://youtu.be/_8uAbOGvwAU
その後、遍照院で休憩し新しい案内人に導かれて信楽・朝宮を経て信楽・多羅尾に入り一泊している。
<まとめ>
遍照院は1570年の開創で、境内には紅梅の古木がある。
正寿院は、高野山真言宗に属し、創建はおよそ800年前、寺伝によると飯尾山医王教寺(養老元年717年創建、現在は廃寺)の塔頭寺院として建立されたと伝えられている。
山号は慈眼山(じげんざん)地名が川の上と書いて川上(かわかみ)、また鎮守の神様が弁財天からして「水」と深い関わりのあるお寺だそうだ。