<行動自粛>
新型コロナは4月に入っても衰える事もなく、猛威をふるっている。
全国的に春を感じられる季節になったけど新型コロナウイルス感染拡大で外出を自粛。
このまま、5月、6月と一体どうなっていくのか。
予定では、徳川家康の伊賀越えのルート、歴史の道を辿る、去年訪ねた宇治田原方面からその先へ進んで見たかったけれど行動自粛。
【動画】伊賀越え https://youtu.be/TKwWFf5NSPQ
<伊賀越え>
「本能寺の変」に関わる徳川家康の「伊賀越え」について、家康は、「本能寺の変」の起こる数日前から、信長の招待を受け畿内各地を見物中で、泉州の堺で事件のことを聞く。
家康のお供は、本多忠勝・服部半蔵・武田氏の旧臣穴山梅雪等のわずか30人余り。
一旦は信長の弔い合戦をする事を考えるも、とにかく本国三河へ帰ろうと決意。
その為、家康の一行は、伊賀越えをし伊勢の海から船で三河に渡る最短の経路を選ぶ。
堺から南山城へ出て、近江信楽付近から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、伊勢国へと急ぐものの、一行は落武者と同様で、武士と言えども少人数で間道を通行することは危険極まりなかった。
<ピンチを救ったのは>
地侍や土民(農民)の一揆の恐れがあり、穴山梅雪は、一行より少し遅れ、土民に殺害される。
家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われ、家康の生涯においても大きなピンチの1つとなる。
その時、伊賀出身の服部半蔵が甲賀者や、半蔵が集めた伊賀者によって助けられたと言われている。
お陰で、家康の一行は伊勢まで辿り着く。
<まとめ>
以来、徳川家康は護衛にあたった彼らを召し抱え、甲賀と伊賀の忍者組織を手の内に入れる。
伊勢からは、どこから船に乗り三河に渡ったか様々な記録が見られ、大きく分けると、白子や若松説、長太浦と四日市説がある。